2006年11月29日

wiiについて思うこと

Wiiについてどう思うかという話をされることがよくあるので、自分の考えをここにまとめておこうと思う。

Wiiがビジネスとしてどうかというのは、答えにくい。僕はあまりそういう方面は得意ではない。
しかし、Wiiがゲーム機として新しい価値を生み出し得るか、といった話ならば出来ると思う。

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まず、ゲームとは、自分の行動(例えばコントローラーの操作であったり、選択肢の決定であったり)が対象の状態を変えられ得る、そしてその結果として反応が返ってくる、というのが僕の定義だ。
一般には、それをさしてインタラクティブである、という言い方を多用していた時代もあったが、その意味でインタラクティブなことが面白いというのであれば、電灯のスイッチを入れたり消したりするのだって面白いという話になるではないか、などと言う意見もあったりした。

もちろん、このような話が出来る年齢の人間にとっては、電灯のスイッチのON/OFFはつまらない。
しかし、ここには確かにゲームの根本的な要素がある。
それが多くの人にとって面白いかどうかはまた別の問題であって、ゲームの定義としてはインタラクティブであること、として問題ないように思う。
(だから、小さな子供は電灯をつけたり消したりを飽きるまで繰り返すのだろう。つまりその子にとっては面白いのである。)

そしてこれがゲームの根本的な要素だとすると、Wiiがゲーム機として何かあたらしい価値を生み出し得るかと考えた場合、難しいと僕には思われる。

何故なら、入力系が大きく変わったとしても、出力系に変化がなければ、根本的な差別化をはかることは出来ないからだ。
どうして出力が重要かといえば、それは前述したように、インタラクティブなことこそがゲームの根本的な定義だからだ。
インタラクティブであるということはつまり反応があるということであり、「何が返ってくるか」が重要な要素だということである。
入力系にこれまでと違った工夫をしても、出力系が以前と同じである限り、人は新しい何かを感じないに違いない。

従って、Wiiはゲーム機としては新しい価値を生み出すことはないだろう。
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これが僕の考えで、誰かに聞かれたらこんな風な答えを返している。
「全く新しい興奮が生まれると思うか?」という問いに対して、「難しいと思うよ。」と言っているわけだ。
全く新しいソフトウェアの出現はないとは言えないから、難しいという言い方になる。

では、例えばどのようであればよいのかとなるとこれは難しい。
僕がコンシューマゲーム機に対して根本的に別の価値を生み出し得ていると思えるものは、ゲームセンターにある体感筐体だ。
体感筐体はプレイヤーの入力を受けて、プレイヤー自身の体を動かす、という全く別の出力があるので、別の価値としてとらえられる。

もちろん家庭において体感筐体を実現しろという話ではない。
言いたいのは、そのようなレベルにおいての出力というものを考えなければ、ゲーム機として根本的に新しいものにはなりえないだろう、というだけのことである。


※追記
ちなみに個人的な好みで言わせてもらえば、コントローラーを両手に持って、剣と盾を振り回すゲームを遊んでみたい気持ちでいっぱいだ。
しかし、斬りつけたときや盾で攻撃を防いだときに感じるはずの抵抗を感じられないならば、わざわざ自分の腕を振り回しているのはかえって虚しくなってしまう。
そんなことなら自室にあるエクスカリバーを握ってニヤニヤしていたほうがマシに思えるのである。
これは、あくまで僕にとってはという話だけれど。


posted by McGand at 11:27| Comment(11) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月24日

十字軍士と首なし騎士のその後

以前のエントリでふれた十字軍士のその後。

気づくとこんなことになっていた。
CrusaderVSHeadless.jpg

両の足を失った十字軍士、そして首なし騎士の剣は柄元から折れている・・・。

おそらく苛烈な戦闘があったのだろう。
映画『スリーピーホロウ』での首なし騎士の戦いぶりを知っている方なら、この十字軍士がどれくらいがんばったか想像できるはずだ。

足を失ってなおその顔に残る微笑みは、彼が悔いの無い戦いをしたことを物語る。
見た目の情けなさからは想像も出来ないほど立派な人物だったようだ。
正直みくびっていた。
トルバドールが見ていれば歌に歌ったかも知れない。

首なし騎士の表情は分からなかった。
posted by McGand at 01:28| Comment(132) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月03日

あのゲームを超えるゲームはない

自分が本当に面白いと思ってハマったあのゲーム。
あれと同じ興奮を味わえるゲームがないのはどうしてだろうか。

簡単に結論を言ってしまえば、何かにつけて、人は慣れる、ということに尽きる。

悲しいことには、なるべく早く慣れてしまうのが楽だ。
もし慣れるという機能が人に備わっていなければ、生きていくのは大変困難な事になるだろう。
忘れてしまえないような事は、いつまで経っても悲しいままだ。

楽しいことに慣れてしまうのは残念だが、もしそうならなければ、いつまでも同じ事を続けているだろう。

どちらも、もし全ての人がそうだったら、それなりの世界があったはずで、その是非を言うつもりはない。
ただ、人は慣れるという事実がある。

ところで、楽しいことに慣れてしまった状態を「飽きる」という。
人は慣れるから、どのような事でも大抵いつかは「飽きる」。
(中にはもう飽きているのに止められない、なんて人もいる。これを依存症というのだろう)

そして一旦慣れてしまったら、同じような楽しみを探しても、実は見つからない。
それは対象がつまらないからではない。自分が慣れてしまったからだ。

本当に面白いと思ってのめり込んだゲームに一度飽きてしまったら、それと同じものを求めて遊ぶ限り、どんなゲームを遊んでも、二度と同じ興奮はない。
あの感動と興奮をもう一度、という気持ちはよく分かるが、そこに出てくる「あの」こそが、再びそれを手にいれる事を阻む部分なのである。

よくある議論に、同じようなタイプのゲームAとBのどちらが面白いか、といったものがある。
しかし、こういう話はどこまでも平行線を辿る事が多い。
どちらかが筋の通った話を展開すれば、もう一方は黙るか納得するかも知れないが、にも関わらず自分の支持するゲームが面白くないとは思わない。

大抵の場合、それはその人がどちらのゲームに最初に触れたかで決まる。

仮にAよりもBのほうが、やや劣ったゲーム性をもったゲームだったとしよう。
しかし、ある人はBを先にプレイし、初めての感動と興奮を味わったのであれば、似たようなゲームであるAを後からプレイしても、Bをプレイしたときほどの感動と興奮は味わえないだろう。
仮定から言えば、AのほうがBよりも優れているはずなのに、である。

同じ興奮を求める限り、自分が始めて興奮したゲームを超えるゲームはない、というのはこういう理由なのである。

※実を言えばこの話には、「人は初めての刺激に弱い」という要素も含まれているのだけれど、話が分かりにくくなるので、その話はまたいずれ。
posted by McGand at 09:43| Comment(5) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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