2007年03月07日

How LOTR should have ended

再び仕事が忙しい時期をむかえており・・・という理由からYouTubeネタが続いてみたりして。

http://www.youtube.com/watch?v=corlwn9sAJk

言われてみれば確かに。
ただ、フロドは自分の意志で指輪を捨てることは出来ないので
「グワイヒアがフロドごと指輪を投下」
が正解だろうか。

そうだよね、いとしいしと?


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2007年01月23日

バトル!

面白いものを教えてもらった。
youtubeはすばらしい。
こんなものまで存在していたとは。

http://www.youtube.com/watch?v=L_vw_ldzlhU
http://www.youtube.com/watch?v=5CNfZsaFajA&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=1DH-BmrVeaI&mode=related&search=

こんなことをして楽しみたい人がこんなにたくさんいるのかと感心してしまうのと同時に、とても嬉しくなる。
そうとう抑制されているんだろうけど、それでもこの暴力のもつ魅力はなんともいえない興奮をさそう。

武器を振り回す姿がいい。
よく言われるように、『斬る』というよりは『叩きつける』感じで、集団戦ならやはりこうあって欲しいものだ。

ヒロイックファンタジーや、よくあるアニメ表現のような、集団の中で一人華麗に舞うヤツがいるのは、まぁカッコイイとは思うけど興奮はしない。
やはり体重とパワーと数でぶつかって欲しいところ。
集団戦では技なんか二の次だ。

いつか間近で見てみたい・・・。
posted by McGand at 12:13| Comment(11) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月10日

骨つきチキン

ゲームのプレイスタイルについて話していたときその言葉が現れた。
そこで「骨つきチキン」はどっち向きに解釈すべきかで悩む。

「もっとチキン」
「チキンよりはちょっとマシ」

どっちなんだろう。
ついてるものが骨だけに相当難しい。
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2006年12月18日

妖精

エルフと聞くと耳が長くて美しくて緑色の服と金髪しか思い浮かばない人。
エルフに対して妖精という言葉を使うと違和感を感じる人。
割とそういう人が多いのは仕方ないのだろう。
「指輪物語」はかくも偉大なのである。

だけどそれが当たり前のように話を進められてもうんざりすることだってある。
そもそも「指輪物語」すら読んだことがないのに「エルフとは〜だ」的な話を僕の前で展開するのはやめろ。フェーデにうったえるぞ。
ちょっとこの本でも読んでみろ。


なんてここで書いても仕方ないのだけれど、この本はホントにオススメ。
日本語版はサムネイルがなかったので英語版をリンクした。

ヨーロッパの妖精について書かれた美しい絵本で、書いてる人がブライアン・フロウド氏とアラン・リー氏。
アラン・リー氏については、「指輪物語」の挿絵や映画「ロード・オブ・ザ・リング」で知っている人も多いだろうと思う。

二人とも絵が恐ろしく上手で、土着の妖精たちを存在感たっぷりに描き出している。
ヨーロッパの妖精たちに現実味をあたえてくれる、すばらしい絵本だ。

ちなみに、そういった妖精たちにもっと実在感を感じられたら、ガラドリエルの言葉の意味も、さらに現実味を帯びてくる。

「われらは西へ旅立つか、さもなければ退化して谷間や洞穴に住む粗野な種族になり下がり、次第に忘れ、忘れられていくほかはありますまいね。」

トールキンのエルフには、そういう妖精たちにつながるパースペクティブがあったのだと思う。

逆に言うと、「エルフとは〜だ」なんて簡単に語れるほど単純な設定じゃないんですよって話だ。わかったか。一部の人。
ラベル:絵本
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2006年11月29日

wiiについて思うこと

Wiiについてどう思うかという話をされることがよくあるので、自分の考えをここにまとめておこうと思う。

Wiiがビジネスとしてどうかというのは、答えにくい。僕はあまりそういう方面は得意ではない。
しかし、Wiiがゲーム機として新しい価値を生み出し得るか、といった話ならば出来ると思う。

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まず、ゲームとは、自分の行動(例えばコントローラーの操作であったり、選択肢の決定であったり)が対象の状態を変えられ得る、そしてその結果として反応が返ってくる、というのが僕の定義だ。
一般には、それをさしてインタラクティブである、という言い方を多用していた時代もあったが、その意味でインタラクティブなことが面白いというのであれば、電灯のスイッチを入れたり消したりするのだって面白いという話になるではないか、などと言う意見もあったりした。

もちろん、このような話が出来る年齢の人間にとっては、電灯のスイッチのON/OFFはつまらない。
しかし、ここには確かにゲームの根本的な要素がある。
それが多くの人にとって面白いかどうかはまた別の問題であって、ゲームの定義としてはインタラクティブであること、として問題ないように思う。
(だから、小さな子供は電灯をつけたり消したりを飽きるまで繰り返すのだろう。つまりその子にとっては面白いのである。)

そしてこれがゲームの根本的な要素だとすると、Wiiがゲーム機として何かあたらしい価値を生み出し得るかと考えた場合、難しいと僕には思われる。

何故なら、入力系が大きく変わったとしても、出力系に変化がなければ、根本的な差別化をはかることは出来ないからだ。
どうして出力が重要かといえば、それは前述したように、インタラクティブなことこそがゲームの根本的な定義だからだ。
インタラクティブであるということはつまり反応があるということであり、「何が返ってくるか」が重要な要素だということである。
入力系にこれまでと違った工夫をしても、出力系が以前と同じである限り、人は新しい何かを感じないに違いない。

従って、Wiiはゲーム機としては新しい価値を生み出すことはないだろう。
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これが僕の考えで、誰かに聞かれたらこんな風な答えを返している。
「全く新しい興奮が生まれると思うか?」という問いに対して、「難しいと思うよ。」と言っているわけだ。
全く新しいソフトウェアの出現はないとは言えないから、難しいという言い方になる。

では、例えばどのようであればよいのかとなるとこれは難しい。
僕がコンシューマゲーム機に対して根本的に別の価値を生み出し得ていると思えるものは、ゲームセンターにある体感筐体だ。
体感筐体はプレイヤーの入力を受けて、プレイヤー自身の体を動かす、という全く別の出力があるので、別の価値としてとらえられる。

もちろん家庭において体感筐体を実現しろという話ではない。
言いたいのは、そのようなレベルにおいての出力というものを考えなければ、ゲーム機として根本的に新しいものにはなりえないだろう、というだけのことである。


※追記
ちなみに個人的な好みで言わせてもらえば、コントローラーを両手に持って、剣と盾を振り回すゲームを遊んでみたい気持ちでいっぱいだ。
しかし、斬りつけたときや盾で攻撃を防いだときに感じるはずの抵抗を感じられないならば、わざわざ自分の腕を振り回しているのはかえって虚しくなってしまう。
そんなことなら自室にあるエクスカリバーを握ってニヤニヤしていたほうがマシに思えるのである。
これは、あくまで僕にとってはという話だけれど。
posted by McGand at 11:27| Comment(11) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月24日

十字軍士と首なし騎士のその後

以前のエントリでふれた十字軍士のその後。

気づくとこんなことになっていた。
CrusaderVSHeadless.jpg

両の足を失った十字軍士、そして首なし騎士の剣は柄元から折れている・・・。

おそらく苛烈な戦闘があったのだろう。
映画『スリーピーホロウ』での首なし騎士の戦いぶりを知っている方なら、この十字軍士がどれくらいがんばったか想像できるはずだ。

足を失ってなおその顔に残る微笑みは、彼が悔いの無い戦いをしたことを物語る。
見た目の情けなさからは想像も出来ないほど立派な人物だったようだ。
正直みくびっていた。
トルバドールが見ていれば歌に歌ったかも知れない。

首なし騎士の表情は分からなかった。
posted by McGand at 01:28| Comment(132) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月03日

あのゲームを超えるゲームはない

自分が本当に面白いと思ってハマったあのゲーム。
あれと同じ興奮を味わえるゲームがないのはどうしてだろうか。

簡単に結論を言ってしまえば、何かにつけて、人は慣れる、ということに尽きる。

悲しいことには、なるべく早く慣れてしまうのが楽だ。
もし慣れるという機能が人に備わっていなければ、生きていくのは大変困難な事になるだろう。
忘れてしまえないような事は、いつまで経っても悲しいままだ。

楽しいことに慣れてしまうのは残念だが、もしそうならなければ、いつまでも同じ事を続けているだろう。

どちらも、もし全ての人がそうだったら、それなりの世界があったはずで、その是非を言うつもりはない。
ただ、人は慣れるという事実がある。

ところで、楽しいことに慣れてしまった状態を「飽きる」という。
人は慣れるから、どのような事でも大抵いつかは「飽きる」。
(中にはもう飽きているのに止められない、なんて人もいる。これを依存症というのだろう)

そして一旦慣れてしまったら、同じような楽しみを探しても、実は見つからない。
それは対象がつまらないからではない。自分が慣れてしまったからだ。

本当に面白いと思ってのめり込んだゲームに一度飽きてしまったら、それと同じものを求めて遊ぶ限り、どんなゲームを遊んでも、二度と同じ興奮はない。
あの感動と興奮をもう一度、という気持ちはよく分かるが、そこに出てくる「あの」こそが、再びそれを手にいれる事を阻む部分なのである。

よくある議論に、同じようなタイプのゲームAとBのどちらが面白いか、といったものがある。
しかし、こういう話はどこまでも平行線を辿る事が多い。
どちらかが筋の通った話を展開すれば、もう一方は黙るか納得するかも知れないが、にも関わらず自分の支持するゲームが面白くないとは思わない。

大抵の場合、それはその人がどちらのゲームに最初に触れたかで決まる。

仮にAよりもBのほうが、やや劣ったゲーム性をもったゲームだったとしよう。
しかし、ある人はBを先にプレイし、初めての感動と興奮を味わったのであれば、似たようなゲームであるAを後からプレイしても、Bをプレイしたときほどの感動と興奮は味わえないだろう。
仮定から言えば、AのほうがBよりも優れているはずなのに、である。

同じ興奮を求める限り、自分が始めて興奮したゲームを超えるゲームはない、というのはこういう理由なのである。

※実を言えばこの話には、「人は初めての刺激に弱い」という要素も含まれているのだけれど、話が分かりにくくなるので、その話はまたいずれ。
posted by McGand at 09:43| Comment(5) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月20日

『銀河鉄道の夜』を観た

プラネタリウム番組『銀河鉄道の夜』を観た。

素晴らしい。
視界全体が映像の世界観で埋まるので、そのリアリティには格別なものがある。

人間は、自分が地軸に対してどのような状態にあるのかを判断するとき、視野内にある垂直線を判断材料のひとつとして用いているそうだ。

だから、例えば演劇の舞台なんかをつくるときには、意識的に垂直、水平のラインを作らないようにして、客を演劇の世界に引き込もうとする手法がある。

プラネタリウムのドームを使った映像というのは、視野いっぱいにその世界が広がるので、当然そんな判断材料は奪われ、結果としてなんともいえない浮遊感のようなものを味わうことが出来る。

映像が写実的かどうかは、リアリティとは関係ないというのを実感できる作品でもあると思う。
逆に言えば、これを体験してリアリティを感じない人というのは、単に身体機能が他の人と大きく違っているか、リアリティという言葉の定義について誤解があるかのどっちかではないか、と思う。

それにしても、そういうリアリティを作り出す素地は、確かにプラネタリウムのドームにあるのだろうけれど、それを効果的に使う事が出来るかどうかは映像を作る際の問題だ。

この『銀河鉄道の夜』は両方の要素が良く生かされていて、その意味でも、とても素晴らしい作品だと思った。
posted by McGand at 12:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月04日

続きもの

僕は、続き物でありながらまだ途中までしか書かれていないもの、つまり現在進行中の作品というのを最後まで読むのが苦手だ。

どんなに面白いと思った作品でも、その時点で出来ているところまで読んだら、続きの部分が後から出てきても読まない事が多い。

そういう作品を数え上げればキリがなくて、例えば漫画だと「マスター・キートン」、「モンスター」、「ベルセルク」、「デス・ノート」あたりがぱっと思いつく。
他にもたくさんあるはずだけれど、すぐには思い出せない。

小説だと「ゲド戦記」あたりは、自分でも残念だと思うくらいなのに完読していない。
最初の3巻を読んだときには完成された作品だと思ったし、それを読んでいる間はとても楽しく過ごせた覚えがあるので、どうして続きを読もうとしないのか自分でもよく分からない。
読みたくないわけではないのに。

世の中には、僕と同じようなタイプの人は結構いるはずだと思うのだけれど、そういう人たちは一体どうやってそれを克服して、続きを読んでいるのだろう。
とても気になる。
posted by McGand at 21:43| Comment(9) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月20日

我が家の中世ヨーロッパ的解釈

指輪物語に出てくるアラゴルンの戴冠シーン。
どういうわけか王なのに跪いて、賢者であり魔法使いでもあるガンダルフから冠をその頭にいただく。

最初にこれを読んだときは、なんだか変だなと思ったのと同時に、根拠もなくかっこいいとも思った。
今にして思うと、あれは中世ヨーロッパ風の戴冠なんだなぁと思う。

いわゆる中世ヨーロッパというのは、権威と権力の分離した世界だった。
王は塗油を受ける事で教会から権威を授けられた。
それは王権が神によって認められた聖なる権力である事を意味し、これによって世俗の一般領主達との差別化をもたらした。

だから、王が破門になったりすると大変なことである。
例えば、有名な「カノッサの屈辱」なんていうのは、そういう話だ。
教会から破門された王(これはドイツ国王なので皇帝でもある)が、極寒の中、無帽裸足で法王の許しを請う、というのだから王権もなかなかやっていくのは大変だったのだろうと思う。

じゃあ王権よりも教会のほうが強いのかというと、決してそんな事はなかったらしい。
一旦塗油を受けて王権が成立すると、教会の司教選挙等に口出ししてみたりと、実際の権力を握っているだけに王権は強かったようだ。

いずれにせよ、王権という権力が(事実上は世襲で誰が王になるか決まっている場合ですら)、塗油を受けて教会から権威を授けられないと効力を発揮しなかったというのが面白い。


ところでこの構図、何気に日常の中にも結構あるように思う。

僕は給与を全てヨメさんに預けている。
普段の収支は基本的にヨメさんが握っているので、実権を握るのはヨメさんだ。つまりヨメさんが王。
給与を全て渡す行為が塗油にあたる。
毎月塗油があるというのもなんだか変だが、まぁそれはいいだろう。
そうすると僕が教会。

事実上の実権を握っている人が決まっていて、権威付けする先も決まっているのに、それが行われるまで決定的な効力はない、というあたりがぴったりである。

ここで問題となるのが子供。これは果たしていった何者であろうか。
「王おりますを聞き知らぬ」輩、という言い回しがホビットの間にはあったそうだが、まさに権威も権力も意に介さない存在がこいつだ。

僕としては、異教の神々のひとつをこれにあてたいと思う。
人間の運命を弄び、きまぐれで無慈悲な、自然の化身のような存在。
しかしやがては姿を消していく存在。

王権と教会の結びつきが強くなり、世界全体をキリスト教が覆っていくなか、辺境の国では、なかなか異教の風習が抜けなかったという。
そこでは、古来からの神々が生きていたに違いない。
しかし、やがてはキリスト教が浸透し、神々も姿を消していく。

子供も同じで、だんだん人間世界のルールを覚えるに従って、無秩序な部分が消えていくのだろう。

そういうわけで、現在の我が家は、権威と権力の分離は見られるものの、概ね世襲が認められており、かつ異教の神々の一人が生きている、という状況に見える。

ヨーロッパで例えると・・・どこだろう。そんなところあるんだろうか。
12世紀頃のアイルランド、ウェールズあたりだろうか?
あとはデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、あたりも有力だろうか?

我が家の中世ヨーロッパ的解釈は、最後にきて僕の知識不足により失敗に終わっている。

god.jpg
(辺境で生き残っている神の図。箸はまだ使えない。絵に描かれたおかしなラインは神の落書きの跡・・・)
ラベル:
posted by McGand at 19:55| Comment(7) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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