2006年09月07日

トリスタンとイゾルデ

『トリスタンとイゾルデ』なんてやるんだ、ふーん、くらいに思ってたら・・・なんと監督はリドリー・スコットではないか!

み・・・観たい・・・。


個人的には、男女の愛を描いた物語というのはあまり好きでない。
だから、テーマ的に言えばこれはあまり見る気がしない系統なんだけれど、監督をリドリー・スコットがやるなら観たいと思う。

基本的に映画に対しては、暗い映画館で作品を見ている間、僕を別の世界へつれていってくれさえすれば、それ以上のものは望まない。
映画館を出てから、なんだかヘンだな、なんて後で思いついたって、それはそれで構わない。
仮にそうなったとしても、映画館にいた間の経験が悪かった事にはならないからだ。

リドリー・スコットという監督は、そういう意味でのリアリティの作り方が上手だと僕は思っていて、だから楽しみなのである。


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2006年08月28日

十字軍と首なし騎士

先日、百円ショップのダイソーにふらりと立ち寄った。
店内をぶらぶらしていると、「面白いものがあるよ」といってヨメさんが僕をある場所に案内してくれた。

そこはガーデニング関連の一角のようだったが、その中にフィギュアが陳列された棚があった。
そして陶器の置物などが並ぶなかに…ヤツらがいた。

crusaders.jpg

思い設けぬ場所で出会った喜びのあまり(かどうか知らんが)見つけた全種類を買ってしまった…。

なんとなくあさってのほうを見つめた目と、強いのか弱いのか分からない体格が最高。
雰囲気出てると言っていいのだろうか。


ところでこのフィギュアというか置物たちは、うちに帰ってから早速子供のおもちゃになった。
同じ系統だと判断したのか、子供は映画「スリーピーホロウ」の首なし騎士のフィギュアも持ち出してきた。

やがてこの首なし騎士はかの十字軍士に襲いかかることとなった。
首なし騎士の凶刃に次々と倒れる十字軍士たち。

はるばるこんな極東の地までやってきて首なし騎士に討たれるとは、なんと無念な話だろうか、などと思ったのだった。

というかちゃんとエルサレムに行かないからそんなことになるのだ。
そこがまた十字軍らしいといえばそんな気もするが。
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2006年08月15日

じこはおこるさ

機関車トーマスの歌の中に、「じこはおこるさ」という曲があるのだけれど、この歌詞がかなりいけてる。

【じこはおこるさ】

スリルなんてちょっとなら たのしみさ
でも、イライラすると じこがおきる
へっちゃらさ、なんて しらんかおして
はしって いると そんなとき

じこがほら おきるよ いきなりくる
ちょうしのって やってると
バチがあたる
じこがほら おきるよ
いいきになってると
そうさ、よそみしてるそのときに
じこは おきるものさ

おもいつきでやると
きっと しっぱいするよ
こううんのめがみは きまぐれだから
ウキウキしてると まっさかさま
わすれないで きをつけてね いつだって

じこがほら おきるよ とつぜんさ
うんがないときは しょうがない
なんとかしよう

じこがもし おきたら
おちこまないで
うまくやれるように がんばろうよ
じこは おきるものさ

”ひょうしきはいくつもあるのにさ、
だいじなモノばかりみおとすね”
そんなとき かならずやってくる
にどとやらなければ いいけど

じこがほら おきるよ いきなりくる
ちょうしのって やってると
バチがあたる
じこがほら おきるよ
いいきになってると
そうさ、よそみしてるそのときに
じこは おきるものさ

じこがほら おきるよ とつぜんさ
うんがないときは しょうがない
なんとかしよう
じこがもし おきたら
おちこまないで

「まぁ、じしんかじょうだと
しゅうちゅうりょくなんて
たいがいさんまんになっちゃうからね」

じこだ、じこだ
わすれてるとじこはおこるさ
ほーら!


英語の歌詞も読んでみたい。とても楽しい詞だと思う。
軽快な曲調にのって、画面では次々と事故の場面が展開する。
ただ、事故といってもトーマスの世界の画なので、そんなになまなましいものではないから、もちろん笑ってみていられる程度のこと。
とはいえ、建物がぶっ壊れたり、崖から次々と列車が転落したり、建物が爆発炎上するシーンなどあって、中には過激だと感じる人もいるみたいだ。
作品の世界と現実をリンクさせて考えてしまう人たちにとっては、恐ろしい内容なのかも知れない。

訳がよほど間違っていない限り、歌詞の内容から、どういう世界観をもっているかを知ることは出来る。
それで思うのは、これはいかにも英国の児童文学だなぁということだ。

「ちょうしのってやってるとバチがあたる」とか言ってたかと思うと、「うんがないときはしょうがない」などとも言う。

何か事故が起きたら人為ミスにしないと気がすまない人たちにとっては、なんだか無責任に思えるかも知れない。
しかし僕としては、無責任なのではなくて、自然とのつきあい方を視野に入れている人たちの世界観なのだと思う。

それはつまり、簡単に言ってしまえば、「しっかり考えて準備すれば、何でもかんでも思った通りに出来るなんて、最初から思っちゃいない」ということだ。

世界には我々の意思とはまったく無関係に働く様々な力があり、しかもそれらと無関係ではいられない。
そういう、人間からしてみれば理不尽で無慈悲な何かに対して、どのように付き合っていくか、という哲学のようなものが根本にあるように思う。

余談だけど、「バチがあたる」っていう概念は英語の世界にも存在するのだろうか。
とても気になる。
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2006年08月06日

王の手は癒しの手

先日風邪をひいて、高熱と、胃が異様に痛むという症状に苦しんだ。

布団の中で、どのように体をひねっても痛みは去らず、誰か助けてくれと思っていたときに、ささやくようなその声がどこか遠くから語りかけてきたのだった。霧は出てなかったように思う。

「王の手は癒しの手」

王様、僕のおなかをなんとかしてください!と本気で思ったのだけれど、近所に王様はいなかった。

それはともかく、この「王の手は癒しの手」というのは、指輪物語に出てきた言葉で、王が不在のゴンドールに言い伝えられた言葉だ。
いつか現れる本当の王は、この癒しの力によってその正体を明らかにするだろう、ということで、アラゴルンが実際にこれを行なって王となる。

ところでこの王の治癒能力というのは、実は中世ヨーロッパで実際にあったことがモデルになっているようだ。
フランスで10世紀頃から、イギリスで12世紀頃から(だったと思う)王が治癒の奇跡を行なったと言う記録が出始めるという。
例えば塗油の直後から何時間、といった制約のようなものもあったみたいで、どんな病気にも効いたというほどのものでもないらしいが、王が病気を治したというのは本当のこととして伝えられている。

王が患者の患部に触り、そこに十字架の印を指で書くと病気が治るというのだから、これは大変なことだと思う。

ところが、皇帝(ドイツ国王)にはこの治癒能力はなかったそうだ。
上位の支配者たる皇帝にはなくて、ただの国王のほうにそういう奇跡能力があったというのが面白い。


剣と魔法の世界において、王というのはいつでも重要な存在だ。
それは皇帝ではなく王なのである。

ヨーロッパ人にとってKINGという言葉の語感には、そういった奇跡を起こし得る存在という、特別なものが含まれていたのではないだろうか、と思う。

奇跡を行なって民を助け、人々が十分に納得のいかないルールを設け、外敵から民を守り、重税を課して人々の生活に負担をかける。
親しみのある保護者であり、同時に畏怖すべき圧制者でもある。
KINGという言葉には、そういうものが含まれているのではないかと思うのである。

もちろん一人の王がこの全てを満たすと言っているわけではない。
だから「KING 〜」という固有名になると、上で述べた要素のうち支配的なものが、その固有名の属性になるのだろう。
しかし、ただ「KING」とだけ言うと、期待と不安の入り混じった感情を呼び起こすのではないか、という話。

ただの僕の思い込みかも知れない。
ただ、そう考えると、海外小説を読んでいて、あるいは映画を見ていて、ときどき飛躍があるように感じる部分が理解できるように思うのだけれど、どうだろうか。

ともあれ、少なくとも僕の中の王様像はそんな風になった。
それが僕の腹痛を治してくれることはなかったが、いまのところその印象は変わらない。
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2006年07月25日

小人の仕事は有難いのか

このところ恐ろしいほどの忙しさ。
仕事するために生きてるわけじゃないぞと言いたいが、仕事をせねば生きていけないのも実際のところ。
持たざる者は働くしかないのである。

そんなわけで小人が現れてかわりに仕事でもしてくれないかなぁ、なんて考えていたら、最近になって時々あらわれるようになった。
自分がつくった覚えの無いデータとか、どうしてこんなミスをするのだろうかというようなものが混じったデータとかが時々見つかるのだ。

どう考えても小人が仕事をしていったとしか思えない。

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2006年06月27日

再読:「ヨーロッパの死者の書」

竹下節子 ヨーロッパの死者の書を再読した。

古代のいろいろな文化には、死者が死後の世界でいかにふるまうべきかというマニュアルの書が残っており、それを「死者の書」と呼ぶという。
それは生前にも読まれ、誰かが死んだ後には、残された者たちがその書を参考に死者の死後の旅をフォローし、そうすることで、死を共同体の共同事業に取り込む役割を果たしていたのだとする。
その意味でそれは同時に、「生きる知恵」でもあるという。

逆に言うと、死を共同体の共同事業として取り込むことに成功している文化には、はっきりとした形での「死者の書」はなくとも、それにあたるものがあるはずだ。

ヨーロッパのキリスト教には「死者の書」と呼ばれるものはないが、「ゆりかごから墓場まで」と言われたように、それは人々の死生観に大きく関わってきた文化である。
それならやはりそこには、「死者の書」にあたる何かがあるはずである。

和魂洋才を言い、欧米化をすすめてきた日本だが、今では死を共同体の中に取り込むという意味での和魂はもはや失くしてしまった。
人々は死に対して、個人で対処せねばならないのが現状であり、それは成熟した文化とは言いがたい。
だから、これまで自分達がすすめてきたものを更に一歩すすめてみてはどうか。
ヨーロッパがもつ「死者の書」から学ぶ事があるのではないか。
そこから「生きる知恵」について学ぶものがあるのではないか。

そうして、ヨーロッパの「死者の書」にあたる部分について、いろいろな例をあげて、説明や解釈を展開している、というのがこの本だと思う。


個人的には、この本の主旨についてどうこう思うことはない。
「良い死」がないところに「良い生」はない、という意見は、個人的には賛成したいが、それも実際よく分からない。
本当の意味で強度の高い人物というのは、そんなものを必要としないくらい受容性に富み、孤独なのではないか、と思うこともある。
だからそんな思想もあってもいいよね、程度で一旦考えは停止する。

では何故この本を読んだかと言えば、あとがきにあたる部分に書いてある言葉がぴったりとあてはまる。
西洋史のなかの科学や芸術だけでなく、西洋史をつくってきた人達がその中で生きて死んだ宗教の風景を少し、近くで見てみたい。

ただし、言葉はぴったりだが動機はもっと不純である。
そういうものを知れば、剣と魔法の世界(を生んだ考え方)を知る手がかりがあるかも知れないと思ったからだ。
本の中では、エジプトやメソポタミア、ユダヤ、ギリシャ・ローマ、ケルトといった文化の「死の風景」を紹介したりしていて、なるほどこれがキリスト教の地下水脈で、結果として「指輪物語」みたいなのが生まれてくるのか、などとよこしまな読み方をするわけだ。
不純だろうがなんだろうが、僕がどう読むかは僕の勝手なのである。

それはともかく、この本はなかなか面白い。
随分時間が経ってからの再読となったわけだけど、今読んでもなかなか読み応えがあった。
死に行く者と残される者に対して、本来のキリスト教はどのように働きかけようとしていたのか、というのが良く分かる。
そういう事(ってどういう事だろうか)に興味のある方にはおすすめ。
あと、よこしまな方にも。

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2006年06月16日

『無思想の発見』



養老孟子『無思想の発見』を読んだ。

養老先生が言うには、日本人は「私には思想なんかない」という「思想」をもっているのだという。
前提となるのは、日本人にとっての「思想」とは、あくまで理屈や理想と同じ「概念」であって、実践されるものではないということだ。
実践されるものは、それはつまり現実であって「思想」ではない、というのが日本人の思想観だという。
当然、そういう考え方も立派な思想なのですよ、というのを気づかせるために、養老先生はあの手この手で説明を繰り返す。
そして、無思想という思想の是非ではなく良し悪しに触れて、(割と肯定的に)話を展開している。
大雑把にいうと、この本はそういう本だと思う。

僕は書評なんて書けないし、そんなものはamazonのレビューでじゅうぶんだと思うので、いつものように微妙にずれた話を。

僕はヨーロッパが好きだから、もちろんあちらの物の考え方にも興味があった。
「日本人はこう考えるが、あっちの人たちはこう考えるらしい」
「日本人はこう行動するが、あっちの人たちはこう行動するらしい」
そういった例は、自然と僕の興味の対象だったわけで、それらの根本的な原因や理由を探せば、それは思想を語るのと似たようなレベルの話になる。
だから、養老先生の言うことはよく分かる。

「日本人には主張がない」というのはよく言われることらしいが、日本人に言わせれば「思い込みが激しいんだよあんたらは」ということだよなと常々僕は思っていて、これなんかも、この本の主旨を理解すれば、よく分かる気がする。
逆に言えば日本人は思い込みの度合いが比較的軽い、と言えるのではないかというのを、この本はいくらか説明するように思う。

ただ、個人的には、「思い込み」こそが途方もないような事を成す原動力だと信じるから、それが日本にはないのだと聞くとやや残念な気持ちにはなる。

例えば十字軍のような馬鹿げたスケールの何か(崇高さも野蛮さも含めた、良し悪しを問わない全ての要素)というのは、そういう思い込みから生まれるのだろう。
しかし、思い込みの症状がやや軽い日本では、そういう馬鹿げたことは起きにくいはずで、それを残念に思うのだ。
(ただし、日本にも無思想という思想から離れた時期があったことをこの本では指摘していて、その時期の日本がどうだったかについても書いてある。)

そういうものには、独特の魅力がある。そして僕はそれが好きである。
そのくせ自分がその中にいたいかと言えば、とてもそんな気にはなれない。
これが外国人ならば、「そんなに好きならそこへ行くでしょ」になると思うのだけれど、そうはならないというこの気持ちのあり方も、この本によれば矛盾なく説明がつく。

以前から、「多様性」を愛する人にとって日本はとても良い国なのではないか、という漠然とした感覚があったのだけれど、『無思想の発見』はそれに少し根拠を与えてくれたように思う。
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2006年06月08日

すてきな三にんぐみ

教育という観点から考えて、子供にどのような絵本を与えるか、というのは、僕はあまり考えない。(全く考えないわけではないが)

自分がそれを好きか、という観点がひとつ。
子供自身がそれを見て気にいっている、あるいは気に入りそうである、という観点がひとつ。
このどちらかが、絵本を買うときの一番大きな動悸となる。

自分が好きな絵本の場合、これならどんな風に読んであげられるだろうか、どんな気持ちを伝えられるだろうか、は結構考える。

僕は、何かに対して感動する「やり方」というのも、人から学ぶことがあると思っているから、自分がまず感動することはとても重要だと思う。
そのうえで、タイミングがよければ、それは子供に伝わるのだと考える。
そのタイミングがどのような時なのか、なんてことまでは分からないけれど。

ところで、そうして自分が気に入って買った本の中にすてきな三にんぐみという本がある。

この絵、よくよく見てみると、どこかで見たことがある気がしてくる。

そうしてようやく気づいたのは、実は自分の描いたキャラクターが三にんぐみに似ているということだった。

sanningumi.jpg

↑コレ と ↓コレ には共通点がありますね?

loukken.jpg

この本を昔自分が持っていたという記憶はない。
だから、この本に描かれている絵が、僕の描いたキャラクターの潜在的なモチーフだったというのは、ちょっと認めにくい。
でも、どこかで見たことがあるのかも知れない。覚えていないだけで。

もともと自分の描く絵に、特別なオリジナリティがあるとは思っていないし、どこかでこの絵本を目にしていて、僕の記憶のどこかにずっとあったのだとしても不思議ではないけれど、それはさておき、どことなく似てるのがおかしい。
自分の描いた絵と似ているんだから、好きなのは当たり前だ、という言い分は、好きの本質を知る人にはそれなりに説得力があるように思う。

絵本の内容も、僕の好きなタイプだ。

馬車をとめて強盗をはたらく三にんぐみの話なのだけれど、そうやって金めのものをたくさん溜め込んでおきながら、何のためにそうしているのかは自分達でも分かっていなかった。

あるとき、さらったみなしごの質問によってその事に気が付いた三にんぐみは、その後たくさんのみなしごを集めて回る。

それから溜めたお金でお城を買って、みんなで一緒に暮らし始める。
そのうわさは広まり、さらにたくさんの子供がお城にあふれかえる。

やがて子供たちは大きくなり、次々に結婚し、城のまわりに町をつくり、三にんぐみの記念碑としてみっつの塔を建てる。

という話。

こうして僕があらすじを書いてしまうと、とても味気なく感じるかも知れないけれど、これは絵本だ。
だから絵つきで見て、読んでみるまでその真価は分からない。
そして読んでみれば、人によっては、最後のページで涙するかも知れない。
僕はいつも泣きそうになるのだから、他にもそんな人がいたっていいと思うのだ。

事後的に、人が一所懸命に生きた跡に触れるときに、僕は何かを感じるのだろう。
ラベル: 絵本
posted by McGand at 03:04| Comment(2) | TrackBack(2) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月01日

情がうつってエルフの理解が深まった話

知り合いが引越す事になって、その話しをしていたときのこと。
以前何かのTVCMで、引っ越しの際に子供が、住んでいた家に向かって「ありがとうございました」とお礼を言うシーンがあったのだけれど、その人もやはりそんな気分になったというのだ。
いわゆる「情がうつる」ということなのだろう。

それは僕にも経験がある。

一人暮らしをしていて、引っ越すことになったとき、何か感じるものがあったのを覚えている。
たいして戻ることもなかった自分の部屋だったし、決して良い部屋だと思っていたわけでもなかったのに、引っ越すときには、何か感じるものがあった。
良い部屋だと思っていなくても感じるものは感じるのである。

それは何も家に限ったことではなくて、長くつきあったモノであれば、結構そういうことを感じることは多い。
何かの新製品は便利だから、あるいは古いものが壊れたから買うわけだけれど、だからといって、すぐにいままでの古い製品ををくだらないと思うわけでもない。うっかりすると感謝していることすらある。

10代の僕は、ものごとのほとんど全てを、「上か下か」の尺度ではかろうとする傾向があった。
しかし、前述したような経験などは、自分の中にある「上か下か」以外の価値観について自覚する、よいきっかけであったように思う。

そしてそのとき、突然僕は、どういうわけかミドルアースのエルフについて思いを馳せたのだった。

ミドルアースのエルフは、神々の国へと招集されている。
だから、エルフにとってのミドルアースでの死は、神々の国への旅立ちと同義になるし、そうでない者達は自らの意思で港から旅立ち、神々の国へおもむかねばならない。

10代の僕がなかなか理解しなかったのは、神々の国に召集されていながら、ぐずぐずとミドルアースを立ち去れずにいるエルフ達、という設定だった。
どうして、ミドルアースよりもずっとすばらしい所であるはずの神々の国に、さっさと立ち去ってしまわないのだろう、と思っていた。
あっちのほうが上なのだから、今のものはさっさと捨ててしまえば良い、と安易に考えていたのだ。

しかし、最初に述べたような経験をするに至って、ようやくエルフの気持ちを思いやってみることが出来るようになった。
数百年、数千年をミドルアースで生きたエルフが、自分に関係した人であれ、モノであれ、そうしたものに対して感じる感情は、相当なものがあっただろう。
しかもエルフにとっての思い出は、人間のそれよりはるかに鮮明だという。

一旦神々の国に行ってしまえば、ミドルアースには二度と戻ることはない。
そのくせエルフの生は、神々の国においてはほぼ永遠だ。
それなら立ち去りがたくぐずぐずととどまっている、というのもよく分かる。

こうして「情がうつる」ことを自覚した僕は、そのときに、エルフについての理解を少しだけ深めたなぁ、と思ったのだった。
posted by McGand at 02:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月14日

ふくろう

drawing_010.jpg
魔法使いとふくろうには、深い関係がある。
物語によって、ふくろうがどのような役割を果たすかはもちろん違っているが、おおむねこの2者は友好関係にあるようだ。

夜に行動し、他のものたちに見えないものを見る力が、魔法使いとの相性を思わせるのだろうか。
大多数のものと違うものを見、違うことを考えていて、住んでいる世界が違うもの同士、という扱いなのだろうと思うが、どうなんだろうか。

もちろん魔法使いの全てがふくろうと仲良しなわけではない。

魔法使いの原型のひとつと言われる、北欧神話のオーディンが従えているのはカラスであって、ふくろうではない。
ケルトのドルイド達も、割と魔法使いの原型のように言われることがあるが、彼らとふくろうが仲良しだというのは聞いたことがないように思う。

一方で、ふくろうが活躍する神話や伝説というと、僕が知る中で一番古いのはエジプトの神話くらいだ。
エジプトの神々の中で、知恵と学問の神トトがふくろうの化身だった。
ギリシャ神話の中では、ふくろうは知恵の神アテナの従者として描かれていたように思う。

恐らく、出自の違うこの2者のうち、ふくろうにまつわる物語や伝説のほうが、十字軍によって地中海世界からヨーロッパに持ち帰られ、それ自身がもつ属性(知恵の神との関連や夜行性であること等)が、魔法使いに結び付けられたのではないかと思う。

しかしキッカケはいったいなんだったのだろう。
自然にそうなったのか、歴史上の有名な魔術師によってそれが創られたりしたのだろうか。
機会があれば調べてみたい。
ラベル:
posted by McGand at 20:58| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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